まちづくりをやっていると、やれ「みんなが憩えて交流できる場」とか「みんなが生き生きと暮らせるまち」とか、何かにつけて「みんな」というフレーズが聞こえてくる。
「みんな」を使わない場合、「多世代」なんて言葉に置き換えられることもあるわけだけど、もうね、とにかくこの言葉聴き飽きたわけ。
一体「みんな」って誰なのか?「多世代」って何なのか?
けどね。これが、もっと小さい単位。例えば商店街の空き店舗活用なんかを議論するにあたって、「みんな」や「多世代」が出てきたら、それはちょっと気をつけた方が良いです。このフレーズが出た瞬間にその空き店舗活用は破滅への道を歩みだしたようなもんですよ。
そもそもみんなが憩えるような場所なんてあるの?
ないんですよ!
子どもから高齢者までが、日常的に憩えて、交流できるような場が実現している事例なんて世の中に見たことも聞いたこともない。
普通に考えて、高齢者が溜まっているような場所に若者が行きたいと思いますか?思わないですよ。逆もまた然り。
運営の工夫で、イベント等、ハレの日をつくるようにすれば、その日だけは若者がくることもあるかもしれないですが、ケの日(日常的)に、高齢者が寄り付くようなところに若者は行かないですよ。
本当、自分に置き換えて考えてみれば、すぐにわかるようなことを、なぜかやろうとするんです。特に行政ね。
行政なんて、大抵前例主義で、前例がことごとく失敗しているのにもかかわらず、なぜか「みんなが◯◯の場」をつくりたがる。
多世代交流拠点形成には色々な補助金がつく
これが、アホみたいに「みんなが◯◯の場」をつくる理由の1つです。
んで、こういう補助金って交流拠点をつくるためのお金を出して、あとは何も面倒も見なければ、効果検証したりとかもしないんですよ。
大体、何を持って「多世代交流」なのか?というか、多世代が交流して何がそんなに良いのか?もうね、そこらへんもよくわからんのですよ。
だって、子どもから高齢者、みんなが交流したところで、その街に何か収益をもたらすの?その商店街の売り上げがアップするの?っていうと、別に何も効果がないわけです。それなのに、我々の血税から補助金が出てるんだから意味わからん。
本当に良い場ってのは、ターゲットを絞っている
マーケティングの観点から見て、というかそういう観点から見なくても、常識的に考えて、何かサービスや事業を展開しようと考えたら、まずは「ターゲット層を明確にする」ってのが大事なわけですよ。
それは、何かの場、空間をつくる上でも大事なことなんだけど、それが「まちづくり」の旗印の下では、なぜかこのターゲットを決めなくてよくなるんですよね。不思議です。ターゲットは誰か?と聞くと「多世代です」とか言うわけ。そんなんターゲットじゃねーよ!
大抵、良い場だなって思うのって、例えば「子育てのために一度は会社を辞めたけど、何か仕事をしたいと考えている意欲的な母親」だったり、「自分が長年培ってきたスキルを地域社会の中で活かしたいと考えている高齢者」とか、とても具体的なターゲット層を定めた上で、空間をつくっているんですよね。
で、こういう空間をつくると結果的に多世代が集まったり、商店街が活性化することもあるんですよね。
たとえば、メルカート三番街なんかは、ターゲット層を絞って、場をつくって、結果的に周辺の街並みに変化が起こってきた一例です。
「みんな」幻想からそろそろ脱退しよう
こんなこと、わざわざぼくがここで書かなくても、まあわかっている人はわかっているんですよ。
でも、意思決定をする人が結局は悪者になりたくない、ターゲット層を絞って失敗したくない、という保身から結局「みんな」とかよくわからないターゲットになってくるんです。
もっと酷いと、本当に「みんな」ということが重要だと考える人もいるんですが、、、
でも、そろそろその「みんな」幻想から脱退しませんか?ターゲット層を絞った場をつくった方が、仕事してても面白いですよ。
★★★
こういう「みんな」論調が強まってきたのは、住民参加型のまちづくりが流行りだしてからだと感じているのですが、最近は、住民参加型のまちづくりプロセスに疑問を呈する人たちが数多く出てきました。
大学においては、いまだに住民参加型のまちづくりについて熱心に授業を受けているようですが、本記事のような考え方が次第に芽吹いてきていることを知っておいて損はないと思います。
たとえば、こんな本がオススメ!
それでは!おしまい!