なんとなく、ふと卒論でたくさん行った高齢者福祉施設(グループホームやデイサービスなど)で働く人へのヒアリングを思い出したので、思い出すままに書き連ねて行こうと思います。
ぼくは、卒論を通して、まあ社会人になった今でもだけど、色々な介護施設にお話をお伺いしに行くことが多かった。
そのなかで、研究開始当初にぼくが驚いたことは
施設で働く人の中にバリアフリーを欲していない人がかなりいるということだ。
ぼくはこの研究を始めるまでは介護施設のことに関して
あまり知らなかったということもあって、このことに結構驚いた。
だって、世間ではやっぱバリアフリーでしょ!みたいに言われていて
授業の設計のときだってバリアフリーを考えるようにと散々言われてきていたのに、そのバリアフリーを現場が欲していないというのだ。
もちろん、全く欲していないというのではない。
ただ、最近の世の中はバリアフリーバリアフリーと少し過剰だと言う運営者の方が数多くいたのだ。
もちろんバリアフリーをかなり欲している人もいるわけだが、ぼくにとってはバリアフリーに対する是非が分かれるなんてこと自体驚きだった。バリアフリーは善悪で言ったら完全なる善、絶対的に必要なものだだと思っていたからだ。
バリアフリーがなぜ最低限しか必要とされていないか?
理由はいくつかある。
①ある程度の不便さが利用者の残存能力を生活の中で自然に活用していくことができるから。
例えば、段差が全くないことや、すごく持ちやすいコップ・茶碗を用いることなどは確かに便利ではあるが、そうすることで利用者が本来残っている能力をどんどん使わなくなってしまうことが考えられる。
わざわざ、リハビリという訓練めいためんどくさいものをしなくとも生活の中で不便さを利用し、自然に能力を活用していく。
そうすることで、訓練をするというストレスの軽減にも繋がるということだ。
実際、箸を利用者が落としてもすぐに拾ってあげなかったり、
わざと段差をつけている施設なども世の中にはあるのだ。
②コミュニケーションの誘発
不便さが、利用者とスタッフの助け合い。また、利用者同士の助け合いの誘発に繋がる。
便利すぎると基本、自分ひとりで行動できてしまうことが多くなり、そこにコミュニケーションが生まれにくくなる。
これはぼくが伺った、ある施設の施設長が言っていたんだけど、
「街や建物をバリアフリーにしすぎる政策はどうかと思う。そういうことにお金をかけるのであれば、もっと教育にお金をかけ、困っている人がいたら自然に手を差し伸べられる人を育てていくことに重点を置くべきではないか?」
ということを仰っていた。
つまり、色々と便利にすることで暮らしやすい世の中をつくるのではなく、人と人との助け合いによって暮らしやすい世の中をつくるということだ。
まあ若干理想論めいたところはあるかもしれないけど、実際に昔の日本はこういう社会であったわけで(介護するのは家族や周りの近隣住民)
それがいつの間にか、施設に任せきりになってしまうのが当たり前の時代になってしまった。
それはライフスタイルの変化や、核家族化により、子供のころから高齢者と関わる機会が極端に減ったとか、共働きが多くなり、親の面倒なんて見る暇がなくなったとか、基本的に村社会であったから、そのコミュニティの中では否応無しに面倒を見ざるを得なかったとか、いろいろな要因が考えられるけど、過去を顧みると、確かに、「人と人とが助け合う過去があったのだ」と当時のぼくは考えさせられた。
古き良き日本の姿を取り戻す動きが多いような気がする昨今
戦後から現在まで、日本は急速に発展していって、めちゃくちゃ便利な生活を手に入れているわけだけど、その発展の中で、便利さを手に入れた中で必ず失ってきたモノがあるわけ。
ただ、最近では、その失ってきたモノを顧みることが傾向的に多くなっていると思うわけです。
例えば寺や神社は戦後まもなくは耐火のため、鉄筋コンクリート構造が多くなっていたんだけど、ここ最近は木造の寺、神社が多くなっているという現状がある。俗に言う、木造回帰。
昔は建物を改修して違う用途で使うということが当たり前であったのに近年では作っては壊して、作っては壊しての繰り返しであった。
しかし、ここ最近また建物のリノベーション、つまりは古いものを活かそうという動きは流行りになってきた。
建築というジャンルで見るだけでもこうした、失ってきたモノを顧みているような試みは数多くやられているけど、このことは、介護の世界にもいえる。
近年は施設に高齢者を預けるというのが主流になってきたけど、最近ではなるべく住み慣れた地域、家で過ごすことをモットーに、地域包括ケアなる概念が出てくるなど、やっぱ家族でなるべく見ていこうと、地域で見ていこうと、そういった古き良き流れがここ数年くらい介護の世界でも出てきているのだ。
まあ、地域包括ケアのとっかかりは膨大にかかる高齢者の医療・介護保険費の軽減以外の何物でもないのだけど、そういうあたたかみのない話はこの記事ではやめる。
ということでさっきの施設長のとある言葉がより考えさせられる。
「街や建物をバリアフリーにしすぎる政策はどうかと思う。そういうことにお金をかけるのであれば、もっと教育にお金をかけ、困っている人がいたら自然に手を差し伸べられる人を育てていくことに重点を置くべきではないか?」
地域包括ケアを成り立たせていくためには、困っている人がいたら自然に手を差し伸べられる人が世の中にたくさんいることが一番だと思う。
そういう世の中であれば、もっと地域による見守りとかも機能するはずだしね。
完全なる理想論なんだけど、そう思う。
★★★
単純に完全バリアフリーの空間って、大概つまらないんだよね。
バリアフリーって今では、して当たり前って感じだし、行政の条例で定められていたりするんだけど、それでも柔軟に物事を考えていくことって必要だなーと、そんな話。
なんとなく思い出したので、書き留めておきます。
おしまい!